「刀伊」の入寇
「高麗」から南蛮の意味で「刀伊」と呼ばれていた部族で、女直又は女真女真というツングース系の剽悍剽悍な民族で、中国東北部黒竜江(アムール川)下流域から沿海州一帯に勢力をもち、日本襲来の約一世紀後には指導者(完顔阿骨打)により統一国家を形成し、「遼」を滅ぼして「金」(「大金」)を建国。「大金」が江戸時代初期に「明」を滅ぼして中国に進出大発展し、「清」を称し明治時代末まで続く。
この「刀伊」が海賊となって、平安時代末の寛仁三年三月二十八日(1019年5月6日)突如として対馬を襲い、これに続く十六日間、壱岐、筑前の怡土・志摩・早良、肥前の松浦の諸郡は、五◯艘の兵船に乗って襲来した謎の賊徒によって劫略の限りを尽くされることになる。(悪夢の16日といわれる。)
その風体はすこぶる異様で、多食・多欲、滅多やたらに牛・ 馬を切り食らい、犬を屠り、成人男女は「追ひ取」って船に乗せ、老幼男女はことごとく切り殺したという。
大宰府権師(次官)藤原隆家の指揮下に藤原助高・大蔵種材以下の俯官や文室忠光・多治久明・大神守宮)・財部弘延・源知ほか各地の多数の住人等が一致協力して奮戦し、敵撃退にこれ努めたといわれる。(大蔵種材は鎮西 原田氏の遠祖である。)
賊は、四月十一日(1019年5月20日)の未明、船越浦に船三◯艘を持って現れたが、我が方は前もって財部弘延等を派遣して待ち伏せさせていたので、その日の夕刻上陸しようとする敵を散々やっつけ、賊はたまりかねて肥前の方に逃れていった。 日本側の必死の反撃及び五月中旬になり高麗の兵船の追撃が激しくなったこともあって、肥前の松浦を最後として、「刀伊」は忽然として姿を消した。後に残されたものは、死者総計370名、捕虜総計約1280名(270名は後日日本に送還されたという。)牛馬損害約390頭という惨害であったという。(小学館「大系日本の歴史4王朝の時代」糸島新聞社「戦国糸島史」より)